太平洋戦争時に日本軍に使われた様々な特攻兵器「零戦」「<馬鹿爆弾>桜花」「回天」「震洋」「伏龍」

太平洋戦争末期に旧日本軍は「特別攻撃(特攻)」を行いました。
特別攻撃とは死を前提として敵に体当たり攻撃を仕掛けることです。

零戦(れいせん、ぜろせん)

特別攻撃にもいくつか種類がありました。
まず有名な神風特別攻撃隊です。正式な読み方は「しんぷうとくべつこうげきたい」でしたが、訓読みの「かみかぜとくべつこうげきたい」が定着しました。

神風特攻は航空機に爆弾を積み相手の空母等の艦船に体当たり攻撃をするというものです。
燃料は片道分しか積んでいなかったと言われていますが、整備兵の方が多めに入れていたそうです。
中には故障や、敵艦隊を発見できなかったり、恐ろしくなり戻って来る方もいたそうで、出撃前にはお酒や覚醒剤、麻薬を摂取することもあったそうです。

神風特攻に使われた飛行機は古いもので↓の「九七式戦闘機」が使用され、
97shiki1

有名な↓の「零式艦上戦闘機(ゼロ戦、レイ戦)」も使用されました。
zerosen1

零戦は神風特攻で最も使用された機体と言われています。
新しいものでは↓の陸軍四式戦闘機「疾風(はやて)」も使用されました。
hayate1

中には九三式中間練習機「赤とんぼ」と呼ばれる複葉の練習機も使用されたことがあるそうです。
「赤とんぼ」も駆逐艦を1隻撃沈するという戦果を上げています。
神風特攻は敵のアメリカ艦隊がレーダーや、対象物付近で自動炸裂するVT信管を搭載した爆弾を大量に使用したためになかなか敵艦までたどりつけなかったと言われていますが、それでも多くの戦果を上げました。
航空特攻(神風特攻)による戦死者は3848人と言われていますが、
空母、戦艦、巡洋艦、駆逐艦、艦艇、輸送船等を多数撃沈、撃破しました。
これは通常攻撃では達成できなかったであろう戦果でしたが、その代償は大きく優秀なパイロットだけでなく、その予備軍の人達も失ってしまう作戦でした。
当時日本はそれ程追い込まれていたのです。
この神風特攻に対して敵のアメリカも徐々に対策を強化し命中率は徐々に落ちていったそうです。
沖縄戦ではほとんど戦果を上げられなくなっていたそうです。

桜花(おうか)

「桜花(おうか)」と呼ばれる特攻兵器も使用されました。
桜花は1944年から開発が開始され1945年には実戦に投入されました。

↓桜花の模型
ouka1

↓実際の桜花
ouka2

桜花は機首部分に大型の徹甲爆弾を搭載しており、母機に吊るされて目標の近くまで行き分離発射されます。
その後は搭乗員が誘導し目標に体当たりさせます。
基本的には滑空で移動しますが、改良がなされ二二型以降はモータージェットで巡航が可能になりました。
桜花を搭載した母機は一式陸攻が多く、低速なため零戦での援護が難しかったそうです。
母機は桜花を分離する前に敵に近づく必要があったため敵のレーダーに発見されて撃墜されることも多かったそうです。
確率は低かったそうですが、攻撃は多数成功しました。
攻撃はアメリカ軍が特攻対策で艦隊中心部を守るレーダー網や布陣を敷いていたため、防御が手薄な外側に多くいる駆逐艦等の小型艦に対して成功することが多かったようです。
終戦までに11の型が製造されており、合計755機が生産されました。
桜花だけで55名が特攻し戦死しました。

航空機を使用した特攻専門の兵器としては世界で唯一のものと言われています。
アメリカ軍からはこのような貴重なパイロットを死なせるために作られた兵器に対して「Baka Bomb(馬鹿爆弾)」、「Baka」というコードネームが付けられたそうです。

回天(かいてん)

回天は大日本帝国海軍が開発した人間魚雷です。
最初の特攻兵器となりました。

1944年7月に試作機が作られ11月8日に実戦投入されました。
終戦までに420機が作られたということです。
回天の名前の由来は幕末の軍艦である回天丸から来ています。
大型酸素魚雷の九三式三型魚雷を改造し回天が作られました。
回天は全長が14.7メートル、直径が1メートルで魚雷に外筒を被せてその中に人間1人が乗れるスペースを作りました。
簡易な操船装置、潜望鏡、調整バルブも設けられ、最高時速は55キロメートルで航続距離は23キロメートルでした。
ハッチは内部から開閉可能で脱出装置がなく、一度出撃した場合は乗員の命はなかったそうです。

↓回天
kaiten1

回天は潜水艦に搭載され運ばれました。
回天に乗り込んだ乗員は潜望鏡で敵艦の位置や進行方向、速力を確認しこれを元に発射角度等と命中までの時間を計算した後に、潜望鏡を下ろしてストップウォッチで時間を計測して突入します。
回天が導入された時、初期は港に停泊中の艦船に対して攻撃を行っていましたが、後にアメリカ軍が防潜網を張り巡らせると停泊中の艦船への攻撃が難しくなり後に航行中の艦船を狙うようになりました。
初期には給油艦のミシシネワ撃沈等多くの戦果を上げました。
アメリカ正規空母や戦艦に対する戦果は現在のところ確認されておらず、多くの搭乗員と搭載潜水艦が犠牲となりました。

震洋(しんよう)

震洋は大日本帝国海軍が作り運用したボート型の特攻兵器です。
1944年に開発が始まっていました。
小型のベニヤ板で作られており、モーターボート型で船内の先の部分に爆弾を搭載していました。
このまま体当たりし敵艦を攻撃するという兵器です。
1人乗りの一型艇と2人乗りの五型艇がありそれぞれ爆弾を250キロ搭載していました。
2人乗りの五型艇には13mm機銃が1、2丁搭載されていました。
戦争末期には敵艦の銃座が増加したため、これを突破するためにロケット弾2発も搭載されました。
震洋は特攻艇として開発されましたが、舵の固定装置がついており救命胴衣を着て後方に脱出することも可能でした。
最高速度は一型が16ノットで特別全速が23ノット、航続距離が110海里、五型が速力27ノットで特別全速が30ノット、航続距離が170海里でした。
エンジンは一型にトヨタのガソリンエンジン1機、五型にはトヨタのガソリンエンジン2機が装備されました。

↓震洋一型
shinyo1

1944年の5月27日に完成しましたが、試験により対波性が不足していることがわかり改良し同年8月28日に正式採用されました。
終戦までに各型の合計で6197艇生産されました。
設計段階から量産を想定していたため、製造しやすく民間軍需工場でも生産されたそうです。
震洋は主にフィリピン、沖縄諸島、太平洋沿岸に配備されました。
アメリカ側によると震洋による損害は4隻だったとのことです。
日本側の記録では実戦で配備された部隊ごと全滅してしまうことが多かったので実体が不明ということが多かったそうです。
搭乗員は他の特殊兵器の搭乗員からの転出者と、学徒兵、海軍飛行予科練習生出身者が中心となり震洋による戦死者は2500人以上と言われています。
元搭乗員の有名人に三島敏夫さんらがいます。

震洋は本土決戦に備え終戦時には4000隻近くが実戦配備されていたといいます。
終戦翌日の1945年8月16日に高知県の部隊に出撃命令が出され、準備中に爆発事故が起こり111名が死亡するという事故が起こりました。
死亡した方の多くが10代で、出撃命令の理由も漁船を敵艦と見間違えたというものだったそうです。

また、震洋と似たモーターボート型の兵器として大日本帝国陸軍の四式肉薄攻撃艇(よんしきにくはくこうげきてい)略称「〇二(マルニ)、〇レ(マルレ)艇」があります。
マルレは当初は特攻兵器として開発されたものではなく、敵にぎりぎりまで近づいて爆雷を投下して離脱するというものでした。
しかし後に敵に体当たりした方が戦果が確実に上がり、技量も必要ないということで特攻に使用されるようになりました。
そのような理由からマルレは艦尾に爆雷を装備していました。

伏龍(ふくりゅう)

伏龍は大日本帝国海軍が特攻用に開発した人間機雷です。
潜水具を装着した人が海に潜り、2メートルの長さの棒の先に機雷がついている五式撃雷でアメリカ軍の上陸用の艦艇を底から突き攻撃するというものです。
五式撃雷は通称「棒機雷」と呼ばれました。

伏龍に使用する潜水具は1945年3月末に海軍の工作学校が1ヶ月で試作したというもので、当時資材不足であったため可能な限り既存の軍需品を使用して作られたそうです。
ゴム服に潜水兜を被り、酸素瓶2本を背負い、呼吸管を胸付近に掲げて鉛を腹と足につけ、足元はわらじでした。
潜水兜にはガラス製の窓がついていましたが、足元しか見えなかったそうです。
重量が重く、全ての潜水装備だけで68キロもあったそうです。

↓伏龍
hukuryu1

海底を歩いて移動するという前提で方向がわからないため、海底に縄を設置しておき、縄を伝いながら沖合に出るというものでした。
通信手段がなく陣地交換等は不可能だったそうです。
五式撃雷の柄の部分も当初は5メートルの長さでしたが海中でその長さのものを動かすには無理があるため2メートルに変更されたそうです。

伏龍最大の問題は潜水缶でした。
これは長時間潜れるように使用されたもので、吐いた息に含まれる二酸化炭素を苛性ソーダを使用し除去し再び吸引するという半循環式のもので潜水艦用のものが転用されました。
最大の利点は息をする時に気泡が出ないということで実験では5時間の潜水を実現しました。
ただし実際には3回程呼吸すると炭酸ガス中毒で失神することが多く、呼吸するための管が外れたり、缶が破れ呼吸機構内に海水が入ると水酸化ナトリウムが海水に溶けて高熱を出し、高温の海水が潜水兜内に入り肺を焼くという極めて大きな問題がありました。
このため横須賀の訓練中だけで10名の死亡者が出てしまいました。

伏龍はその他にも実戦運用上様々な問題があり、実戦で攻撃が成功する可能性は極めて低いと言われていました。
伏龍の特攻者は呼吸のコツがあり難易度が高いので練度の高い者や身体能力が高い者が主に選ばれ、孤独に耐えられる者として長男が多く選抜されました。
さらに伏龍の場合志願制ではなく命令であったそうです。
訓練は横須賀等各地で3000名近くに対し行われました。
配備予定地域は主にアメリカ軍が上陸してくると想定された九十九里海岸で、1945年10月末の配備を目標に訓練していましたが、その前に終戦となったため実戦投入はありませんでした。
しかし、1945年6月10日に土浦で訓練中の訓練生と教官が空襲に遭い281名が死亡しました。

参考-wikipedia


記事を共有する
Tweet about this on TwitterShare on Facebook0Share on Tumblr0Share on LinkedIn0Share on Google+0
スポンサードリンク

今週の人気記事