武士の男色文化について。江戸時代の同性愛文化「衆道」、戦国武将の男色など

江戸時代までの武士の男色

日本における男性の同性愛は男色(だんしょく)と呼ばれますが、平安時代に僧侶や公家の間で流行したものが鎌倉時代には武士にも広がりはじめ、室町時代には武士の習慣となっていました。
戦国時代には多数の武将が男色を行っており、興味がなかったのは豊臣秀吉くらいだったと言われています。

武士の男色の始まりは戦場では女人禁制のため、戦場で武将に仕える美少年を「お小姓」として連れて行ったことが始まりとされ、「お小姓」が女性の代わりに相手をすることもあったそうです。
能楽の創始者世阿弥も足利義満の小姓であったとされ、男色は将軍・大名・武将に気に入られる1つの手段であったそうです。

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出典 – unknownjapanesegroove.net

江戸時代以降の武士の男色

日本の江戸時代に盛んであった武士同士の同性愛文化を「衆道(しゅどう)」と言います。
衆道は若衆道の略で、別名「若道(じゃくどう)」、「若色(じゃくしょく)」とも呼ばれました。

1661年に書かれた衆道物語
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出典 – ja.wikipedia.org

江戸時代になり、世の中が平和になると男色の戦略的な面は機能しなくなり、以前までの主従関係だけでなく同輩関係の男色も広がっていったそうです。
年長者の念者と年少者の若衆という区別があり、若衆の多くは美しい少年だったそうです。
江戸時代に入ってから武士の男色が衆道と呼ばれるようになりました。

江戸時代に入ってから衆道を取り締まる動きもあり、初期では姫路藩主の池田光政は家中での衆道を厳しく禁止し、違反した家臣を追放している。
江戸中期には君主への忠誠より男色相手との関係を重視したり、美少年をめぐり刃傷、暴行事件もよく起きたため問題視され江戸後期になると衆道は目立たなくなったそうです。
江戸時代の仇討ちで一番多かったのも衆道敵討ちでトラブルが絶えなかったようです。
男色は町人の間でも流行しており「陰間遊び」が流行っていました。
明治維新までは取締りが行われていなければ男色は倫理的に問題がある行為とはみなされず、男色を行うものが特に隠したりするようなこともなかったそうです。
薩摩藩では明治維新まで衆道が続き、新撰組局長近藤勇の手紙にも「局内で男色が流行している。」と書かれていたそうです。
薩摩藩は明治政府の海軍に影響力を持っていたため明治時代の後半まで衆道の影響があり、衆道が消滅したのは大正時代の頃だったとされています。

衆道についての記録もあった書物「葉隠」

江戸時代中期(1716年頃)に出された武士としての心得(武士道)について書かれた葉隠(はがくれ)という本にも男色について書かれており、「互いに想う相手は一生にただひとりだけ」「相手を何度も替えるのは言語道断」「5年は付き合って、相手の人間性をよく見るべき」といったようなことが書かれています。
相手が信用できない浮気者の場合は付き合う価値がないので別れるべきと書かれており、怒鳴ってもついてくるような相手であれば「切り捨つべし」と書かれています。
衆道は「命がけのものが最高」とも記述されています。

男色を行っていたとされる有名な武士達

・足利義満
足利義満は上記の通り世阿弥を愛していたとされ、世阿弥もそれに応えたとされています。

・武田信玄
武田信玄は「唐甲陽軍鑑」などによると数年間男色にはまりすぎて「仕事をして下さい。」と家臣に言われてしまったそうです。
「あの人とは寝てない。お前だけだ。」「あの人とはもうしません。」というラブレターも残っています。

・上杉謙信
妻は取らなかった謙信でしたが美しい小姓を常にはべらせていたそうです。
有名な相手としては直江兼続がいます。

ダンディな上杉謙信
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出典 – ibarakinootoko.cocolog-nifty.com

上杉謙信に愛された直江兼続
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出典 – ja.wikipedia.org

・織田信長
織田信長は森蘭丸を小姓とし、良い仲であったそうです。前田利家も少年時代は信長に気に入られていましたが、大人になると捨てられてしまったそうです。

・伊達政宗
寵童(大事にしている男色の相手)の只野作十郎に浮気相手(男)がいると密告を受けた政宗は宴席で取り乱し作十郎を非難しましたが、
作十郎は潔白を証明するため「浮気はしていません!」という血判状を送り、
それに対して政宗は「この前は疑って申し訳なかった。この前は酒が入っていたのでついそうなったしまったんだ。こんなに怒るとは思っていなかったし、作十郎が血を流そうとしている時近くにいたら絶対に止めていたよ。本当にごめん。周りの目もあるからこっそり手紙を送ります。」
というやりとりの手紙が残っています。
また政宗と作十郎は自己切傷を行い、傷付ける行為を通してお互いの親密さを増すという行為を行っていたようです。

独眼竜の目は作十郎だけを見ていたのですね。
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出典 – ja.wikipedia.org

・徳川家康
鷹狩りを行っていた時、かなりの美少年だった井伊直政に一目ぼれして小姓にしました。
直政はその後家康の天下取りを全力で支えた功績が認められ、徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑にまでなりました。

鳴かぬなら鳴くまで待とうほととぎす…
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出典 – ja.wikipedia.org

・徳川家光
家光は美しい少年の踊りが好きで、伊達政宗と美少年を選んで踊らせたりしたそうです。

・西郷隆盛
衆道が盛んな薩摩出身の西郷隆盛はある僧侶と関係を持っていたとされ、一緒に海に入水自殺をしようとしたと言われています。

さ、西郷どん…
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出典 – ja.wikipedia.org

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